*2025年9月15日の出版に先立ち、プロローグを公開させていただきます。
「家族の舟 〜亜希のペアレント・トレーニング〜」
プロローグ 2023年
部屋は穏やかで暖かい朝の光に満たされている。新しい週の始まり、月曜日だ。大野浩司は穏やかな笑みを浮かべて、キッチンのシンクに180センチメートルの長身をかがめ、食器を洗っている。蛇口から流れ出る水の音と、カチャカチャと食器同士が触れ合う音が小気味よく響いている。左手にあるガスコンロの横の小窓からは明るい朝日が差し込んでいる。小窓の横のラックに置かれたトースターの中では、ニクロム線ヒーターがオレンジ色の光を放ち、その下で食パンがゆっくりときつね色に色づき始めている。そのパンが焼ける甘くて柔らかい香りが漂ってくる。
蛇口を捻って水を出し、浩司は食器についた泡を洗い流しながら、その芳しい小麦の香りを深く吸い込む。皿についたバターを泡のついたスポンジでこすりながら、彼は自分の周りを満たしている幸せな空気を噛み締めていた。全てがうまくいっている。彼はそう実感していた。真冬の水道水の手の甲を刺すような、冷たさを通り越して痛みに近い刺激さえも心地いい。それくらい、彼の心は満たされていた。
「お父さん、カッコいいね」
突然の背後から声に浩司は驚き、慌てて水道の蛇口を止めてから振り向く。声の主は十六歳になる次女の亜希だ。
「そ、そう?」
浩司は娘の方を振り向きながらエプロンで手を拭き、下を向いて自分の服装を見た。今朝も、五、六年前に無印良品で買ったLサイズの茶色の冬用パジャマを着ている。何度も洗濯したので、色褪せてヨレヨレで毛玉だらけである。しかも買った時より随分と太ってしまい、お腹とお尻の布地がパンパンではち切れそうだ。早くXLサイズのパジャマを買わないといけないと思いながら、買いに行くのが面倒でそのまま着続けている。
「カッコいいかな?」
浩司はバツが悪そうに頭を掻いた。寝癖でボサボサの頭髪は、生え際と頭頂部がだいぶ薄くなってきた。毛の少なくなった部分を触ると、頭皮の感触が指先にダイレクトに伝わり、切なくなる。来年で五十歳。年相応に老け込んだことを自覚している。それでも、
「うん、カッコいいよ」
亜希は屈託ない笑顔で繰り返し、お気に入りのアンパンマンのマグカップに入ったココアを一口飲んだ。彼女は天然パーマの強い髪を、ポニーテールにして後ろで束ね、前髪を黒いピンで止めていた。そして学校の制服である長袖の白いポロシャツと、その上から紺色と濃い緑のチェック柄のジャンパースカートを着ている。
亜希は広島市立広島特別支援学校の高等部に通う一年生だ。彼女は『特別』な『支援』を必要とする子ども。つまり、障害児である。『自閉症と知的な遅れ』。それが亜希についた診断名である。知能指数は同級生の半分程度。年齢は十六歳だが、八歳程度の能力しかない。
窓から差し込む柔らかい初冬の光の中、美味しそうに微笑みながらココアを飲む娘の姿に、自然と浩司の口元はほころんだ。そして、かつての地獄のような日々は夢のようだ、と感慨に浸った。
今から五年前、当時小学五年生だった亜希は不登校だった。毎朝、「学校に行け!」という浩司の怒号と、「行きたくない!」と亜希が泣き叫ぶ声が、カーテンを閉め切った薄暗い寝室に響いた。当時の亜希は着替えることも嫌がり、何日も同じパジャマ姿で過ごしていた。風呂に入ることも嫌がって、いつも髪はボサボサで油っぽくフケだらけ。顔は常に青白く、いつも俯いていた。当時の家の中の空気は常に暗く、澱んでいた。あの頃に比べて、この朝の空気の、なんと清々しいことか。浩司は腰に手を当てて胸を逸らし、鼻から大きく息を吸い込んだ。焼き上がった食パンの香ばしい匂いと、亜希が飲むココアの甘い香りが混じり合って、心地よく鼻腔をくすぐる。窓からは明るく澄んだ朝の光が差し込んでいる。浩司は、胸の奥から溢れる幸福感に、さらに頬が緩んでしまうのを、どうしても止められなかった。
亜希は知能と同様に、体の成長も遅かった。身長は140センチメートルで、体重は38kgである。見た目にも小学三年生くらいにしか見えない。趣味や興味も、その知能と体格と比例して幼い。一般的な十六歳が、流行のファッションや歌手やアイドルを追いかけ、異性や恋愛に興味津々な中、亜希は未だにリカちゃん人形と、ドラえもんと、クレヨンしんちゃんに夢中である。同級生が思春期を迎えて親に反抗している中、亜希はいまだに幼児のような屈託のなさで、両親と姉の凉香にまとわりついてくる。買い物には必ずついてくるし、中学入学と同時に亜希専用の子ども部屋を与えたけれど、そこで一人で過ごすことは全くない。常にリビングにいて家族の誰かと一緒に過ごす。そして夜寝る時は、「一人で寝るのは怖い」と言って、いまだに浩司と母親の美佳子の間に挟まれて川の字になって寝る。
「でも、デブで、ハゲで、オッサンだよ? カッコいいかね?」
浩司は照れて亜希にそう問いかけながら、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ヤカンに沸いたお湯を注いで、スプーンで掻き回した。
「うん! カッコいいよ!」
亜希は即座に答え、そしてニッコリと笑った。その細めた目の周りはいつもアトピー性皮膚炎の影響で薄いピンク色に充血し、皮膚がささくれだっている。整った顔立ちをしている美佳子に似て鼻筋は通っているが、顎が少しずれており、そのせいで口が右にひん曲がっているように見える。口を開けて笑うと、ガタガタで隙間だらけの歯並びが姿を現す。上の前歯の右隣の歯だけ、なぜか異様に小さく、歯茎からほんの三ミリほどしか顔を覗かせていない。そのせいで、笑うとそこだけ歯が抜けている。浩司はその笑顔を見るたび、子どもの頃に夢中になって読んだ漫画「ドクタースランプ」に出てきたガッチャンを思い出す。亜希の笑顔は、世間一般の美的基準で言えば、決して美しくないし、可愛くはないだろう。しかし浩司にとっては、朝の日差しの中で、ガッチャンのように屈託なく笑う亜希の微笑みは、何事にも変えがたい愛おしいものなのであった。
「それじゃ、行ってくるね」
亜希はココアを美味しそうに飲み干し、満足そうに微笑んだ。そして椅子から立ち上がり、空になったマグカップをキッチンのシンクに運んだ。
「使ったコップを運んでくれてありがとう! えらい! 助かるよ!」
浩司は亜希の『使ったマグカップをシンクに運ぶ』という『行動』を『褒め』た。すると亜希は嬉しそうに、またガタガタの歯並びをむき出しにしてニッと笑った。そして、リビングを出て玄関に向かい、靴を履いた。
「それじゃーね、バイバーイ」
振り返って浩司に手を振ってドアを出ていく亜希に、
「バイバーイ、いってらっしゃい」
浩司も手を振り、見送った。
妻の美佳子が仕事に行き、亜希が学校に行ってしまうと、家は浩司だけになる。洗濯はすでに干し終え、窓の外の物干し竿で十二月の冷たい風に吹かれて揺れている。洗い終えた食器やコップはラックの上で重ねられている。
彼は食パンをトースターから取り出すとバターを塗り、コーヒーと一緒にテーブルに並べた。こうして朝の家事を終え、静まり返ったリビングで、仕事に出かけるまでのわずかな時間、一人で過ごすのが浩司は好きだ。忙しい兼業主夫に許された、短いけど贅沢な一人だけの時間。今朝は溜まっていた生ゴミをまとめて出したので、いつも以上にキッチンとリビングの空気が澄んでいるように感じる。浩司は、「いただきます」と手を合わせてからパンを手に取ってかじりついた。バターが溶けて染み込んだ部分とカリカリに焼けた部分が、噛むほどに口の中で絶妙に混ざり合う。
「うまい!」
彼は満足げに頷いた。二口ほど食べたところで、テーブルに置いていたスマートフォンが鳴った。手に取ってチェックすると関西で一人暮らしをしている大学二年生の長女・凉香からのLINEだった。「十二月二十四日から一月五日まで広島に帰るね」という文面に、また浩司の頬がゆるむ。「クリスマスを一緒に過ごす彼氏はいないのか?」と返信しようとしたが、やめた。そして、「オッケー、了解です」と入力して送信する。すぐに、「帰ったらお父さんのハンバーグ食べたい」との返信。浩司は「オッケー、了解です」と同じ文面を返す。ただし今度は文末に、ハートマークを五つ追加した。
「ありがたいことだ」
浩司は頭を垂れて五秒ほど手を合わせてから、食べかけのトーストを手に取り、口に運んだ。
凉香も高校一年生の時、不登校だった。毎晩のように、泣き叫び、壁を叩いて床を蹴って物を投げて暴れた。しかし、あるきっかけで不登校を克服できた。それから勉強の遅れを取り戻し、成績をグングン上げて難関と称される関西の某国立大学に現役合格した。
「本当に、ありがたいな」
浩司はトーストの最後の一口を口に放り込むと手を合わせて、「ごちそうさまでした」と皿に向かって頭を下げた。その皿をシンクに片付けると、今度は朝刊をテーブルの上に広げた。まずは折り込みチラシをチェックする。近所のスーパーの特売情報を確認するためだ。「おっ?」近所のスーパーのパンの特売デーの見出しに、浩司は身を乗り出した。このスーパーは店内にパン工房があり、いつでも焼きたての美味しいパンを食べられることで評判だ。美佳子はここのウィンナーパンが大好物なので、これから夜勤明けで帰ってくる妻のために買っておこうと、浩司は思った。そして、スマホを手に取ると、メモのアプリを立ち上げて「ウィンナーパン」と入力した。さらに他のチラシもチェックしていく。結婚相談サービスの広告が目に入った。それを見て浩司は、美佳子が照れくさそうに言った言葉を思い出した。
「浩ちゃんみたいな人が、理想の結婚相手なんだって」
一週間前、仕事から帰ってきた美佳子は、こんな話を聞かせてくれた。
美佳子は広島市内の総合病院で看護師をしている。昼食休憩の時に、独身の若い看護師さん達が理想の結婚相手について話していた。美佳子が横でそれを聞きながら弁当を食べていると、その中の一人が、「私、大野さんの旦那さんみたいな人がいい」と言い始め、他の独身の看護師さん達も「私も!」と、次々と賛同してくれたというのである。美佳子が驚いて理由を聞くと、「炊事、洗濯、料理、家事は全てできるし、毎日、職場まで車で送り迎えしてくれるから」とのことだった。その若い看護師さん達の発言には、彼女たちの上司である美佳子のご機嫌取りの意図もあったのだろうと浩司は思う。だが、そうだとしても嬉しかった。直接会ったことはないし、今後も会うこともないだろうが、その若い看護師さん達に「理想の結婚相手」と言ってもらえたことで、彼の自己肯定感は大幅に上昇した。ふとチラシから顔を上げた時、食器棚のガラスに映った自分の顔が目に入った。なるほどこれが「鼻の下が伸びる」というやつか、と感心したくなるくらい、顔面の肉全体がとろけて落ちそうなほどニヤけていた。そんなだらしない自分の顔に、浩司はおかしくなって、一人で声を立てて笑った。
浩司はチラシを全て見終わり、新聞を手に取った。テレビ欄をチェックしてから一枚めくって社会面を開った。娘を虐待死させた父親の裁判の記事が彼の目に飛び込んできた。頬が冷たくなり、固く強張る。朝から嫌な気分になりたくない。浩司は新聞を閉じようとした。しかし、できなかった。きっと書かれていることは、他人事ではない。この記事から逃げてはいけない。そんな気がした。浩司は覚悟を決め、短く息を吐き出した。そして、少し下腹に力を入れて、記事を読んだ。
…X県の会社員・容疑者Z (四十四歳)は、小学三年生の娘が言うことを聞かないことに腹を立て、「躾」と称して日常的に暴言、暴力、体罰を加えていた。そしてある晩、子どもが泣き止まないことに腹を立て、風呂場で娘の体に熱湯をかけ、全身に大火傷を負わせた。その後、娘をそのまま放置し、死なせてしまった…。
浩司は居た堪れなくなって、新聞を閉じた。彼の耳の奥に、幼い頃の凉香と亜希の、泣き声が蘇る。浩司はそれを払いのけるように首を振って、目を固く閉じた。すると今度は瞼の裏に、凉香と亜希が、大粒の涙を流す顔が浮びあがる。その映像に、自分の怒号が被さる。
「うっせえな! 泣くな! クソガキ!」
さらに子どもたちの泣き声は大きくなる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません! お父さん、ごめんなさい!」
凉香と亜希はしゃくりあげながら、必死に浩司に懇願する。
「もうやめて! 許してあげて!」
美佳子も泣きながら、浩司の右腕に縋りついてくる。「うるさい!」と浩司は美佳子の細い腕を払いのけ、
「黙れボケ! 許して欲しければ泣くな!」
さらに大きな声で、子どもたちを怒鳴りつける。
浩司は、激しく首を振って、忌まわしい記憶を頭から追い出そうとした。そして自分の胸の中に渦巻く、真っ黒なヘドロのような重苦しい感情を振り払おうと、冷めたコーヒーを一気に喉に流し込んだ。むせて咳き込み、新聞とテーブルの上に吐き出してしまった。ティッシュペーパーを何枚も引き抜いて、それを拭きながら吐き捨てた。
「…何が、理想の結婚相手だ…」
浩司は両肘をテーブルにつき、頭を抱えた。
俺はひどい父親だ。美佳子も凉香も亜希も、よくこんな俺を許し、夫として父親として、この家に置いてくれているもんだ。家族に対する感謝と罪悪感と自己嫌悪が、頭の中でグチャグチャに入り混じり、頭がおかしくなりそうだった。浩司は両手で頭を無茶苦茶にかきむしった。
浩司は再び新聞の社会面を開いた。そこに掲載された容疑者Zの顔写真と目があった。Zはぎこちない作り笑いを浮かべてこちらを見つめている。その眼差しは笑いながらも、どこか他人を拒むような不穏な光が潜んでいた。顔立ちは全く違う。しかしどこか自分に似ていると浩司は感じた。
俺もひょっとしたら、容疑者Zのように娘たちに取り返しのつかないことをして、新聞に載っていたかもしれない。その事実と可能性は、浩司の心と体を深く暗く落ち込ませ、深いため息をつかせた。胸がムカムカして、鈍い頭痛がした。今すぐ横になりたかった。しかし、椅子から立ち上がって二階の寝室まで行く気力もなかった。浩司は椅子の背もたれに体を預け、きつく目を閉じた。脳裏に、この家で多くの過ちを犯した、五年前の冬のことが蘇ってきた。
(第1章 2018年 父親失格 に続く)
小説「家族の舟」出版のお知らせ
沈没しかけた家族に、一つの航路が生まれた
うつ病、不登校、家庭内暴力。
しげの実体験をもとにした小説「家族の舟」
2025年9月15日 「私」物語化計画より出版